S45年11月26日 朝の御理解
御理解第84節おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。
お道の信心をさせて頂いて、えー、分からせて頂く事は、えー、天地の親神様が、ああ、生きとし生ける物の上に、立ち行きのおかげを下さる、また、下さろうとする働き。えー、そういう働きのある事を信じて、そういう働きのお邪魔にならんような生き方をさして下さいというのが、あたしの御道の信心だと思う、ね。
天地の親神様がね、これは人間氏子だけではありません。生きとし生ける物の立ち行き、助かり、ね、その事を、おー、願い続け、働き続けて下さってあるという事をです、あたくしは、まず信ずるところから、ね、その働きのお邪魔にならない生き方、そういう生き方を、おー、学びとらせて頂くというか、そういう生き方を身に付けていくというかね、それが、あたし、金光様の御信心だと思う。
ね、ですから、あたくし共、日々、どうぞ神様のお働きの邪魔にならんあたくしでありますようにという願い、いうなら、おかげの邪魔になりません私でありますようにという願い、ね、そういう願いが、切実になされ、それが、ああ、その、いわば、効果をそうするというかね、いう、うー、生き方を、おー、させて頂くのが御道の信心であり、その生き方を教祖は実意丁寧神信心と、おー、身をもって示され、また、それを教えておられるのであります。
ね、その実意丁寧神信心という事がね、神様のおかげをおかげとして分からせてもらい頂かせてもらう、一番素晴らしい生き方だと、教祖様は、ああ、まあ、喝破されたというんでしょうかね、ね。
細うても長う続かねば繁盛でない、繁盛を願うという事は、そういう生き方、細うてもそこんところが分からしてもろうて、しだいにそこを踏み広げていくのが繁盛である。道に草を生やすような事をすな、その神様の働きのお邪魔になるような事をすな、と、私、いう事だと思う、ね。せっかく、踏み広げて通っておる、その道に草を生やすような事をすなと。
昨日は、(綾部さん?)の、御承知でしょうが、昨日、おー、25日の婦人会、それから研修会で、(それを?)初めて聞かせて頂いたんですけれども、秋永先生から、ああ、こちらに来られる途中でラジオを聞いたと。あの、みしまゆきおさんという小説家が、あー、割腹自殺をしたと。
ね、それも、(もくふう?)に介錯をさせて、自分の首を切り落とさせた。しかもそれに続いた学生も、やっぱり同じ割腹自殺。そして、二つの首を赤いじゅうたんの上に置かせて、えー、っていったような、それこそショッキングなお話しでしたね。皆さんもお聞きになったでしょう。
あたくしは夕べ、えー、御祈念終わって、えー、あの、テレビ室に参りましたら、ちょうど、それを、その事を、おー、あのニュースで報じておるのを初めから最後まで聞かせて頂きましたけれど、ほんとに、しゅぎ、しゅ、えー、しゅししゅぎのためにね、命を張っていくというのは、いかにも尊い、けれども、そのしゅしをね、あたくし間違えたら気の毒な事だと思うですね。あたくしは、ほんとに、それを聞かせて頂きながら、天皇陛下もご迷惑だとあたくしは思いましたね。
いかに、天皇陛下万歳いうたところでですよ、それが、どれほど天皇陛下の御為になる事なのか、むしろ、天皇陛下という名を出される事を、あたくしは、お困りになったんではなかろうか。
あたくしは、もうこの、お話しをさせて頂く前にほんとに、えー、みしまゆきおさん、他の、おー、御霊様に、の冥福を祈らななければおれません、また、祈りもいたしました。その上に、あたくしは、今日のお話しを聞いてもらうわけですけれどね。
ほんとに、自分のしゅぎしゅそうのために、命を張ってという事は尊いけれども、その主義をいわば、間違えておるという事は、もう大変な事なんですよ。世間にあくを流すだけです、ね。
昨日の初めから最後までの、あーその、様子、またその写真を見な、せておりました。一緒に行きましたら、学生の5人のうちの一人に、いー、質問をいたしておりましたですね。その人、その学生が言ってますよ、ね。
みしま先生には悪いけれども、ね、みしま先生の後に、なら、続いていくという事はよういたしません、と言うております。ね、そのみしまさんは、そりゃ自分が、こういうその死を持って成す事だから、そういう自分のしゅぎしゅそうというものが、立派だと思うておられるから、必ずこれには付いてくるものがあると信じて、まあ、そういう、うー、大変な、ああ、まあ決断を、ね、されたわけでしょうけれども。肝心要のその、自分が教育しておる、自分と共に行動したその学生すらが、みしま先生に悪いけれども、そのしゅぎしゅそうには付いていかんっち言いよると。
あたくしはね、おごりがましいといやあ、こんなおごりがましい事はないと思うですね。例えば、なら日本の、日本、日本の昔の(とくだいていごく?)と申しましたようなですね、なら、日本人の理想国家というか、ね、天皇陛下を(ごちょせいにもうしあげた?)天皇陛下。
ああ、いわゆる、(きゅうこん愛国?)といったようなね、という事がはたして、人間の幸せになる事なのかと。もし日本人だけよかっても、他の、おー、国々の上にはどういう影響を及ぼすかと。ね、それこそ、日本、大日本帝国の下敷きになってくる新国民があるとするなら、そういう事がね、天地の神様の機感にかなうはずがないです、ね。
あたくしは、ほんとに悲しい事だと思いますね。そういう、例えば、思想のためにですよね、血道を上げておる、それで自分がいっぱし、お国を思いよる愛国者というような、ああ、考え方をしておる人があるとするならね。そういう、まあ、類の人達がたくさん、やっぱり、その、おー、(いわおの東西?)を問わずにそういう人物がありましたね。
それで、はたして、世の中が清まったり、明るうなったり、そのために、えー、世の中が繁栄するという事になっていない。ね、ほんとに、人間全てがね、ほんとにここに、肉眼をおいて心眼を開けと教祖がおっしゃる、心眼を開いて、本当な事を(みほんとう?)な事を聞き、分からせてもらわなければならないなあ、いよいよお道の信心さして頂くものが、本当な事を分からしてもろうてです、ね、今年、いわゆる和賀心時代に突入なるというような、えー、ことをあたくしは申しております。
いわば、精神革命といったような事も申しております。ね、ほんとにそういう意味においてでもですね、精神革命がなされなければならない、いー、ほんとに、いー、その歩みをちちとしておっても、ほんとの事が分かって、その事に奉仕し、その事に命を懸けられるおかげを頂かなければならんなと思わせてもらいますね。
そこでです、今日、あたくし最初に申しました、ね、信心というのはね、ね、神様のお働き、天地の、おー、働き、これは生きとし生ける物、人間だけじゃない、世界中の総氏子という人間だけじゃない、生きとし生ける物が立ち行く事の為にです、ね、お働きかけ下さっておられる、その神様のお心を知り、お心を悟って、その心の、神様の思いに沿い奉るという事は、そういう働きのお邪魔にならぬ生活をさして下さいという事だという。
ね、その生き方を教祖は、実意丁寧神信心と、御自身が身を持って、それを示されて、それが、細うてもです、ね、絶対の道が開けてくる。
自分のような生き方をするものがおらなければ、日本は潰れる今に。あたし、そういう思い方がね、あたしは、その、間違ってると思うですね。いかにもそれは、愛国の精神のようではあるけれども、それは愛国ではない、むしろ、あたし、国を滅ぼす、そういう考え方は、ね。
世界真の平和といったような事を例えばなら、口にいたしておりましてもです、人間の浅い知恵力でね、または、勢力などでね、武力などでね、出来る事は絶対にないのです、ね。いうならばね、ほんとに、教祖様がおっしゃった実意丁寧神信心をさして頂いて、ね、神様のお働きの邪魔にならない生き方の人が、ね、だんだん増えていく事こそ、細々ながらでも、それは素晴らしい道が開けていく手立てはもう他にはない。
そこで、御道の信心を頂いておるものがです、そこにほんとに着眼しての生活。ね、ただ、御利益を下さい、御利益を下さいという、いかに願いの信心だというてもです、繋がっておらなければ、あたしは、無意味だと思うね。
例えば、昨日のそういう、うー、おー、事件を引き起こした中心である所の、みしまみゆおさん、また、それに続いて、百名からの、ああ、ま、軍隊のようなものでけておりましたですね、昨日の、なにやその、そのそういう、うー、場面もニュースの中にいれ、ああ、あの、出ておりました。うん、ほんとに、おごり、例えば、今日の御理解のように、実におごりがましい事だと思うですね。
ね、あまりにも思い高ぶっておる、思い方、実に残念。それが世の中を立て直そうというならまだいい。けれども、その、日本国家、天皇陛下の御為だけといったような思想、ねー、こまい。そして、出来るかというと、できない。果たして、それが続くかというと続かない。ね、ほんとに人間の知恵とか力という、どんなに(ちむつけあってもね?)、それくらいの事しか思いつけない。
ほんとにどうかして、御道の信心、いや、御道の信心っちゅうても、その教祖の、おー、生きられ方というかね、いかにも地味で、ね、細々としておるようであるけれども、そういう生き方に習わせて頂くという事がね、どんなに素晴らしい事かという事を、まず、あたくし共が、(たいにん?)さしてもらって、ね、そして、その体験の上に立って、それを人にまた伝えていくというような、ね、おかげを頂く。
そして、そこからです、なら例えば、その、みしまさんじゃないけども、命を張ってです、ね、全世界に呼びかけるというかね、精神革命を、おー、呼びかけていく、そこにしか本当の良い道は開けんのだと、もう、ほんとに噛んで含めるように分からせられる内容を持っておるのが金光教です。ね、ですからそれを一人にでも二人にでも、皆が分からせてもらおうというような事に命懸けで、私、はまったらね、どんなに素晴らしい事になるだろうかと。
昨日、おとといでしたかね、青年会が、ああ、新たに、んー、まあ、新たに生まれるという訳ではないけども、今までの青年会の、が、ま、ああ、妻帯者、または、うー、妻帯してない、ま、25歳以下ぐらいの青年の方達の、おー、二つにして、新しい青年会を、まあ、作ろうとこういう。
ん、そのお届けがありました時に、私、あの、おお、この、入り口にあります大きな岩の横に、あの、ツゲの木が根元にうわっておりますよね、あの岩のまあ、(ねーぶるようにこうわに?)大きな、見事な、あの、おー、(ケハイ?)あ、じゃない、ツゲの木です。
それを頂くです。だから、ツゲというのは、一年中、あれは青々としておる木ですから、ね、まあ、生き生きとした元気な心という事をそこから感じると同時に、ツゲの木というのは、それが段々、大きくなりますと、非常に粘りの強い木ですから、どういう彫刻のもんでも使われる。例えば、女のあの、櫛なんかにはもう、最高と言われておる。ツゲの櫛というのは。
どういう、ちょう、もんにでも使えれるという、特に櫛と、櫛には、ああ、最適の、おー、木だと。ね、いうなら、髪をね、梳き流さしてもらうというかね。いわゆる、そういう意味で、かみをかみと頂いて、しんじんのしんという字に頂いてですたい、ね。
なるほど、小さい時には、若い時には役には立たない、ただ、青々としておるだけなこと。けども育つ所はですね、やはり、どういう御用にでもお使いまわしの頂けれる人物というか、そういう信者氏子にならせて頂く事を未来としての会にならなければならないといったような事を、まあ申しました事です。ね、ほんとの、例えばお役に立たせて下さいという、その願いというものがね。
昨日のあの、みしまさんの、その事件の話を聞かせて頂きましたら、あの人が、主催しておられた会が、ああ、たての会というんだそうですね。その、んー、まあ天皇陛下の御立てという訳でしょうかね。あたくし、それから、ふと感じて、はあ、前の晩に頂いた、うー、新しく、(ここんとこかで?)誕生するという、おー、新しい青年会の、あれを、おー、ツゲの会としたらどうかと私は思うた、ね。
まあ、菊栄会の、おー、が、ああ、あの誕生する時にも、やりましたように、ま、いうならば、合楽の中心、いわば中心である、あたくしの、おお、まあ、いうならば、(こまい兵?)のようなものだと、はは。ね。私の手になったり、足になったり、して、ほんとにその活動がでける会にならなければならないというような、まあ、一つの理想の元に、菊栄会が発足した。
そして、また次の青年の方達が、ああ、松栄会を、おー、作られた。だから、その松栄会に、その、おー、まあ精神というか、それは、ちょうど、うー、まあ、菊栄会が、ああ、ま、(しょうこうきょ?)とでもいうかね、一切の働きをでけれる、うー、あれならば、松栄会の人達は、いうならば、あの、戦時中に予科練っていうのがありましたね、とにかく、まだ若いけれども、体を張って、お国の為に働こうと、という人達なのです。
ですから、例えていうならば、ああ、落下傘を抱いて飛び降りるぐらいな勇気がなからなければ松栄会には、入会できない。実際には、簡単な事なんですけども、やはりその、思いきり決断というものは、なかなか決断しなければ、とても、高い所からね、飛び降りるというのですから、落下傘を抱いてであっても。
そういう、内容を持った人達の、まあ、集いにならなければならない。だから、そういう所に、な、ああその、んー、精神的な繋がりを持って、信心を進めて行こうとしておる。して、今度また、新たにでける。たまたま、その、みしまさんのその事件と、んー、前後して、その、その前の日には、(おでけたい、でける、頂いた?)のですから、ね、たての会じゃないけども、やはり、あたくしは、ツゲの会というような、ああ、グループがね、でけて、えー、まいりましたら、いよいよ有り難い事だとこう思う、ね。
自分の主義とか思想の為に、ね、命を張る。ね、信心でも、ね、例え若くてもです、ね、狙う所は、ね、ほんとに神様のお役に立ちたい、神様に喜んで頂く氏子に取り立てて頂きたい、そういう、願いの元にです、例えば、その、あたしは、たての会を誉められないけれどもです、し、主義思想が間違ってるというのです。
けども、その思い立ちというかね、その生き方は、あたくし賛成ですね。人間が、その事に命を懸けられるという事は素晴らしい事ですよ、ね。けども、間違えた事に命を懸けたら、大変な事だというのであって、あたくしが申します、いうなら、その和賀心時代に突入した、いよいよ精神革命といったような事にです、ね、その若い方達が、本気になられるような、ああ、働きというものがです、生まれるならばね、これは素晴らしい事だと。
まあ、それにあやからせて頂いて、今度、うー、いつ、そういう発会するか分かりませんけども、んー、おそらく会の名前を頂きにこられたら、どうでも一つ、んー、えー、ツゲの会にしなさいっち、ね。
例えば、松栄会が、ああ、当時の予科練精神を、おー、学び、ね、同じ散るならばね、例えばその、合楽の庭に散ろといったような精神の元に、えーその、信心を進めていかれたもんですから、ね、もう主義思想が絶対のもの、間違いのないもの、世界真の平和に繋がるもの、同時に、自分自身も助かっていけれるもの。そういう素晴らしい事、間違いのない事に繋がっていくのですからね、うん。
新たに生まれる、青年会は一つ、んー、ツゲの会。大きくなったら、絶対お役に立てれる、今は、お役に立てなくても。ただ、問題は、生き生きとした、ツゲの木のような信心を続けていくというような、えー、会にならなければならないというふうに、私は思わせて頂いた、ね。
そこからです、ね、私が御用に使うて頂かなければ、と例えば思う、ね。神様がね、例えば、大坪総一郎一人が、おる事を心強う思うて下さる。と、まあ、これは、思いあがりでしょうか、それは、おごりがましい事か、ま、知りませんけれどもね、主義思想を間違いないでの思いなのです。
私それなら、許されると思う。ね、今後の合楽教会発展の為に、ね、もう絶対、ツゲの会がなからなければできんのだという思い。いいや、御道の信心、いいや、世界真の平和の為の、ま、ああ、(しょせいしん?)にでもならせて頂こう、それにつな、続いていく人達を願わせてもらえる内容を持った集い。
それは、わずかの人達から発足した会であってもです、ね、それならば、私は、おごりがましいという事であっても、神様が喜んで下さる、おごりがましい思い方だと、こう思う、ね。いうならば、素晴らしき慢心だと思う、ね。それもどこまでもです、神様がおかげを下さろうとする働き、その働きを知って、その働きの邪魔にならんという、ならんような生き方をさして下さいという、信心。
ね、草が生えかかったら、その草を取り除かせて頂こうという信心。細うても良いから、それを踏み広げていくという、勇気のある信心。ね、そういう信心が若い方達にかけられる。また、それを自覚するという、あたくしは信心が、合楽から誕生してもいいように思います。
ね、ま、今日は、大変、(かぞくのつようたところから?)この84節を頂きました。お互い一つ、本気で、えー、繁盛の道を辿らしてもらわなければ、絶対繁盛の道でなからないかん、ね。それが、どんなに素晴らしい理念、理想の元にです、ね、であっても、ね、あたしはね、あたくしが申しますような、(きょうそださん?)がおっしゃっておられるような、ああ、生き方を持ってしなければ、それはもう絶対間違いだと。
ね、精神革命というてもです、(たいわん?)申しますように、ね、天地自然の働きというものは、人間氏子だけではない、生きとし生ける物の立ち行きを願い、その働きをして下さってあるという根本的な考え方。その精神、その根本的な精神を、まず体得するという事。
そこからですね、その働きを、ま、ああ、援助するというかね、その働きに邪魔にならんというかね、ね、そういう生き方をです、ね、総、お、氏子と申しますかね、なら、そういう気にならせてもらう事こそが、ほんとの日本人の精神革命なんです。ね、神様におすがりさえしときゃあ良か道が開けるというんじゃなくて、神様の働きそのものを大事にして、その神様の、おお、働きのお邪魔にならない生き方に精進さしてもらうという生き方。
ね、そこからです、あたくしは、例えば、細々とであっても、それが繁盛の道に絶対繋がるという事をですね、お互い知って頂きたい。そういう素晴らしい信心をお互いさして頂いておる。そういう素晴らしい内容を持った、御道の信心である事をです、ね、まず自分自身がそれを頂いて、それを、ね、世の中にも、押し進めというか、押し広めていくというか、いくおかげと、そういう、勇気と、ね、元気な心と、ね。しかも、そういう素晴らしい事にです、ね。
昨日の、おお、事件の中心である所のみしまさん、んー、に、繋がる、その学生達の精神が、命に懸けてでもというようなものがです、ね、精神革命の方に変えられる事になって、その(かちやく?)をする人達がでけてきたらです、いよいよ、素晴らしい事になるだろう、と思います。
ね、それには、まず私達の一人ひとりがです、ね、そういう、その神様の(だいじゅっそう?)に向かって、えー、姿勢を向けたり、整えたりしておるかどうか。ね、そういう素晴らしい神様の願いがある事を知らずにです、ただ、自分の小さい願いだけの事にしゅうししておるとするなら、いかに金光教だって、いかに合楽の信奉者だって、それは、もうつまらん信心というていい。
今日あたくしが申しましたような所でです、ね、眼目が置かれて信心の稽古をいよいよさして頂いて、ね、細うても、踏み広げられる確信を持っての信心。ね、ツゲの会じゃないですけれども、絶対、この木が育ちさいすれば、どういう御用、どういう彫刻のもんでも使えれるという、間違いのない焦点を、を、見極めての信心じゃなければいけないという事ですよね、どうぞ。